1「あと一歩」
チャイムが鳴り終わる前に、和人はいつもの席へと滑り込んだ。窓際、教室の後ろから二列目――そこは、生まれた時から隣で笑ってきた美桜の席のとなりだ。
「今日もギリギリ〜。和人、相変わらずだね。遅いから先に行っといて正解私。」
「うるさいな、美桜。別に遅刻してないし。」
「はいはい。1分遅刻ね。」
軽口を交わすのも、もう何年目になるんだろう。保育園の頃からずっと同じ道を歩き、同じ時間を過ごしてきた二人。
誰かに「付き合ってるの?」と聞かれても、不思議じゃないくらい近くにいるのが当たり前だった。
――でも、それでも、恋人じゃない。
「ねえ、次のテスト範囲もうやった?」
「おう。昨日ちょっとだけ。美桜は?」
「私はあとちょっとで全部終わるよ。」
和人は小さくため息をつく。やっぱり美桜は努力家だ。勉強だってほんの少し自分の方が得意なだけで、あっという間に追い越される気がする。
美桜のそういうところが好きなんだ。
……そう、“好き”なんだ。
美桜も自分のことをそう思ってくれている。たぶん、いや、確実に。
でも──────。
「なあ、美桜。」
「ん?」
「いや、なんでもない。」
喉まで出かかった言葉を、また飲み込んでしまった。
もう何度、こうやってチャンスを逃しただろう。
美桜の横顔は、今日も明るい太陽の光に照らされている。手を伸ばせば届く距離にいるのに、「好き」の一言が言えないせいでどこか遠い。
周りからは「早く付き合っちゃいなよ」なんて言われる。でも、お互いに一歩を踏み出せないまま、気づけば高校最後の年になっていた。
――このまま“幼なじみ”で終わるのか。
それとも、あと一歩を踏み出せる日が来るのか。
お互いに答えはまだ出ないまま、今日も隣の席で笑い合っている。
2「不安」
いつも通りの日々を過ごしていた放課後、廊下はいつもより少しざわついていた。
美桜は靴箱の前で待っているだろう和人の方へと自然に足が動く。
──はずだった。
「あの! 和人くん、ちょっといい?」
和人の目の前にいたのは、同じクラスの里奈。前髪をきれいに整えた明るくて男女隔てなく人気のある女子だ。
和人が軽く目を見開いたまま固まるのを見て、美桜の胸がざわついた。
「え、ああ…?」
「急にごめんね。ちょっと話したいことがあって。」
和人は一瞬驚きながらも承諾した。
美桜は、なんで?という思いがこぼれた。
そして、和人に気づかれないように急いで校舎を後にした。
「和人は私の事、どうでもよかったのかな。」
口に出してみると、それが思っていた以上に平然としている声で驚いた。けれど心臓は、ぎゅっと音を立てて縮んでいく。
数分後、帰り道で和人とばったり会ってしまったが、その表情はどこかぎこちなかった。
「……美桜、俺告白された。」
「そう、なんだ。」
それだけの言葉しか出てこなかった。
“やっぱり”と思う気持ちと、“まさか”と思う気持ちが同時に押し寄せる。
「なんて言ったの?」
「まだ返事してない。ちゃんと考えてから答えたいからって。」
和人の声は真っ直ぐで、嘘のかけらもなかった。
それが逆に、美桜の胸をざわつかせる。
だって、断らなかったから。
“考える”と言った。自分の知らない場所で、他の誰かと未来を思い描く可能性を――否定しなかった。
即答して欲しかったのに。
「……そっか。」
笑おうとしたけれど、うまくいかなかった。
和人の隣が“当たり前”だった日々に、初めて小さなひびが入った気がした。
歩き慣れた帰り道も、今日は少し遠く感じる。
隣にいるはずの和人が、手の届かないところへ行ってしまいそうで。
――ねえ、和人。
私たち、本当に“幼なじみ”のままでいられるの?
3「崩れる日常」
きっかけは、小さな噂だった。
「ねえ知ってる?美桜ってさ、和人くんに依存してるらしいよ。」
「聞いた? あの子、和人くん以外とは全然話さないんだって」
廊下の曲がり角で耳に入った言葉。
誰が言っているのかと思って顔を向ければ、そこには里奈の姿があった。
里奈は女子たちに囲まれながら、わざとらしく口元に手を当てて笑っている。
「まあ、幼なじみって言ってもちょっと重すぎるよね〜」
――そう、だよね。
胸の奥が冷たくなっていく。
その日の放課後、美桜は靴箱の前でいつも通り和人を待った。
けれど、彼は来なかった。
「……先、行っちゃったのかな。」
そう思って校門へ向かうと、遠くに見慣れた背中が見えた。
その隣には、里奈がいた。
肩が触れ合うほど近くを歩きながら、楽しそうに笑っている。
和人の口元にも、いつもの優しい笑みが浮かんでいた。
――ああ、そういうことなんだ。
頭が真っ白になった。
自分だけが「幼なじみ」という特別な位置にしがみついていたのか。
和人はもう、里奈と“これから”を歩き始めているのかもしれない。
「……ばか。」
それ以上見ていられず、踵を返した。
翌日、和人が声をかけてきても目を合わせることができなかった。
「おはよ、美桜」
「……話しかけないで。」
「ごめん。」
小さな声でそう言って、席に座る。
和人の顔が曇ったのが、視界の端に見えた。
それでも、彼の手を振り払ってしまう自分が止められなかった。
心の奥で、叫びが渦を巻いていた。
――どうして言ってくれなかったの?
――どうして、私じゃないの?
日が経つごとに、胸の奥に広がる黒いものは大きくなっていく。
教室にいるのがつらい。和人と里奈が目に入るのが耐えられない。同じクラスになんてならなければ良かった。家に帰っても涙が止まらない。
和人からの連絡も見ることができなかった。
まるで、世界にひとりだけ置き去りにされたみたいだ。
そして、ある夜。
美桜は机の上にノートを開き、一枚の紙に震える手で言葉を書き始めた。
――「ごめんなさい」――
その言葉が、自分の最後になるかもしれないと思いながら。
4「行方」
ここ数日、美桜は誰とも話していなかった。
教室では俯いてノートを見つめるばかりで、昼休みも席を立たず、放課後は誰よりも早く姿を消す。
“いつもの美桜”は、もうどこにもいなかった。
「なあ、美桜……」
「……」
和人が声をかけても、返事はない。
笑顔も、視線すら返ってこない。
――何かがおかしい。
ようやくそう感じたのは、きっと遅すぎたのかもしれない。
その日の放課後も、いつものように「帰ろう」と声をかけようとしたが、美桜の席は空っぽだった。
机の上には筆箱も教科書も置かれたまま。まるで、途中で姿を消したみたいだった。
「……美桜?」
校内を探してもどこにもいない。
昇降口にも校庭にも彼女の姿はなかった。
そしてその夜、和人のスマホが震えた。
画面には、美桜の母親からのメッセージが表示されていた。
――「美桜、まだ帰ってきていないの。何か知らない?」
その瞬間、全身の血の気が引いた。
「……帰っていない?」
どこに行った?誰といる?
どこにもいない。
なんで何も言わずに――。
頭の中が真っ白になったまま家を飛び出し、和人は夜の街を駆け回った。
よく二人で寄った公園、放課後に寄り道したコンビニ、図書室の近くのベンチ……。
だけど、どこにも美桜はいない。
──その頃、街の外れの歩道橋の上。
人通りのない場所で、美桜はぼんやりと遠くの灯りを見つめていた。
足元にはゆっくりと流れる車のライト。
"生"の世界のようにとても眩しく思えた。
風が頬を撫でるたび、心の奥の重さが少しずつ剥がれていくような気がした。
「……もう、疲れたな。しんどい。」
声に出すと、それが本当の気持ちだと分かってしまった。
自分がいなくなっても、きっと世界は変わらない。
和人も、里奈も、きっと明日を生きていく。
“私なんて最初からいない方がいい”とさえ思えてしまった。
――ごめんね、和人。こんな私でごめんね。
涙が頬を伝う頃、ポケットの中でスマホが震えた。
何度も何度も鳴り響く。
画面には、たった一つ大好きな人の名前。
『和人』
それでも美桜は応えなかった。
ただ静かに、夜の風の中へと手を伸ばした。
まるで"終わり"を確かめるように。
5「懐古」
――気づけば、海の音が聞こえていた。
夜の風が頬を撫で、潮の香りが鼻をかすめる。
自然と足が向いていたのは、和人と何度も来た海辺だった。
小学生の夏休み、波打ち際で追いかけっこをした場所。
中学生のとき、進路の話をしながら並んで座ったベンチ。
どれも、和人との思い出ばかり。
「……ほんと、バカみたいだな、私。なんでここに来ちゃったのかなぁ。」
涙がまた溢れた。
和人と過ごした時間は、こんなにも幸せだったのに。
それを全部、自分から壊してしまった気がした。
もう何も元には戻らない。
「和人……ごめんね。」
月明かりに照らされた海は穏やかで、まるで「それでいいよ、こっちにおいで」と囁いているみたいだった。
このまま、すべてから解放されるのも悪くない。最後はこの場所で――そう思いかけた、そのときだった。
「――美桜!!」
聞き慣れた声が、風を切って届いた。
振り向くと、砂浜を必死に走ってくる影があった。
肩で息をしながら、転びそうな勢いで走ってくるのは――和人だった。
「どこに行ってたんだよ……! ずっと探してたんだぞ!!」
次の瞬間、和人は美桜を強く抱きしめた。
腕の力が震えている。まるで、この手を離したら本当に消えてしまうとでも思っているみたいに。
「……死なないでくれ、美桜。お願いだ。」
「……和人……」
「お前がいなきゃ、俺、何もできないんだよ。
朝起きても、昼飯食ってても、授業中でも、いつもお前のことばっか考えてる。
ずっと隣にいて、当たり前になってたけど、当たり前なんかじゃない。
いなくなったら、俺の世界、全部崩れるんだ。」
和人の声は震え、涙が頬を伝っていた。
それは、美桜が今まで一度も見たことのない顔だった。
「……好きなんだよ。ずっと、ずっと昔から、お前のことが。
だから、勝手にいなくなるなよ……お願いだから。」
その言葉が胸の奥に響いた瞬間、美桜の心に張りついていた重たい鎖が音を立ててほどけていくのが分かった。
「……そんなの、ずるいよ。」
「え……?」
「そんなふうに言われたら、もう……泣くしかないじゃん。」
美桜は和人の胸の中で声をあげて泣いた。
苦しかった日々、孤独な時間、どうしようもなかった思い――全部が涙になって溢れていく。
和人もまた、声を押し殺すように泣いていた。2人の涙が混ざりあって、離れた心を繋ぎ直していく。
「ごめんね、和人……私、怖かったの。
嫌われるのが、置いていかれるのが、怖くて……」
「バカ。置いてくわけないだろ。ずっと一緒にいるのに嫌いになるわけもないだろ。絶対、離れない。」
夜の海の音が二人を包み込む。
波の音に混ざって、どちらの嗚咽か分からない涙の音が響いた。
――もう離れない。
そう心に誓いながら、二人は互いの温もりを確かめ合った。
6「約束」
あの夜から数日が経った。
あの海辺で泣きじゃくって以来、美桜の世界は少しずつ色を取り戻していた。
朝の教室、窓から差し込む光がやけにまぶしい。
机に向かってぼんやりしていると、後ろからそっと肩を叩かれた。
「よう、美桜。」
声の主はもちろん――和人だ。
少し照れくさそうな笑顔を浮かべて、いつものように隣の席に座る。
「元気出た?」
「うん。……心配かけてごめんね。」
自然と笑い合えるようになった自分たちに、美桜は少しだけ驚いた。
あの夜、泣きながら抱きしめられた温もりは、今も胸の奥で静かに灯っている。
――あの言葉を。絶対離さないって信じていいんだよね。
放課後、二人は並んで帰り道を歩いていた。
海へと続く坂道。昔から何度も一緒に通った道だけど、今日は少しだけ空が広く見える。
「なあ、美桜。」
「ん?」
「言いたいことがあるんだ。」
和人は立ち止まり、真っすぐに美桜の瞳を見つめた。
夕焼けが二人の影を長く伸ばし、風が頬をくすぐる。
「俺、ずっと言いたかった。たくさん美桜と遊んだこの場所で。ちゃんと美桜のことを見て、しっかりと支えていきたい。これからは恋人として隣を歩いてください。」
息が止まるような沈黙が流れた。
けれど、美桜の答えは、最初から決まっていた。
「……うん、もちろん。そんなの当たり前でしょ。私にしかできないもん。隣で和人を支えていきたい。大好きです。」
涙がこぼれるのを止められなかった。
でも今度の涙は悲しみじゃない。あの日の夜とは違う、心の底から湧き上がる“幸せ”の涙だった。
「でも和人、1つ聞いていい?」
「どうした?」
「里奈に告白された後、何日か一緒に帰ってたけど、里奈とはどうなったの?」
「……ああ、あれな。脅されてたんだ里奈に。美桜と帰ったら大変なことになるって言われて何も出来なかった。寂しくさせて、悲しい思いさせてごめんな。」
和人がそっと手を握ってくる。
それは温かくて、離したくないと思えるほど優しかった。
「これからは、もう一人で泣かせないから。」
「私も、一人で抱え込まないって決めた。」
二人の指が、しっかりと絡まる。
歩幅を合わせて進むその一歩は、これまでの“幼なじみ”としての時間とは違う、恋人としての新しい一歩だった。
――好きになってよかった。
――君と出会えて、よかった。
『これからも二人で過ごそうね。』
波の音が遠くで響く。
それは、二人の新しい物語の始まりを告げる音のようだった。